弁護士ブログ

12月14日(赤穂浪士討入の日)

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  • 2016/12/14

勅使下向の春弥生…

おはなし下され 梶川殿
五万三千国 所領も捨て
家来も捨てての刃傷でござる
武士の情をご存知ならばその手はなして
今一太刀討たせて下され 梶川殿~~
というのは,父の十八番だった「刃傷松の廊下」(真山一郎)の一節。
耳について離れません(といってYouTubeで初めて本物を見ました…)

今日は,赤穂浪士四十七士討入の日。元禄15年12月14日,大石内蔵助を首領とする浅野内匠頭家臣四十七士が江戸本所松坂町(現在の東京都墨田区両国三丁目13-9あたり)の吉良上野介義央の邸宅に討ち入り,見事本懐を遂げ,吉良を討ったという日です。
松の廊下で切り付けた浅野内匠頭だけが即日切腹となり,遺恨の相手である吉良には咎めがなかったとことの恨みを果たしたとその忠節を称え,後年忠臣蔵でもてはやされる事件です。
(なお,はっきり言って時代劇ファンを除き,最近若者には知らない人が多い…)

東京都港区高輪にある泉岳寺,京都府山科区にある大石神社などでは,四十七士の忠節を称える義士祭が行われます。
あと,討ち入り後,四十七士は四家に預けられ,そのうち,大石内蔵助の長男大石主悦をはじめとする10名は松平隠岐守,すなわち伊予松山藩預りとなり,伊予松山藩中屋敷(現在の東京都港区三田2丁目,現イタリア大使館)で切腹しています。そのことから,松山市末広町の興聖寺でも義士祭が行われます(松山南校のほぼ前)。

ところで,そもそも主君の敵を討つことが「仇討ち」として認められるのかという当時からの法的論点は興味深いです(これは法制史か)。

また,よく考えると,「民法出デテ忠孝亡ブ」(穂積八束)なんて言葉もありましたが,この事件の現代的意義については考えさせられるものがあります。
先日,箕面市萱野にある萱野三平邸址(涓泉亭)に行きました。亡主君への忠義と父への孝行の板挟みに悩み自決した赤穂浪士萱野三平の実家だったそうです。「忠ならんと欲すれば孝ならず,孝ならんと欲すれば忠ならず。重盛の進退ここに谷(きわ)まれり」と平重盛が嘆いたように当時の日本人としての行動としてはあり得る行動だったのかもしれません。
しかし,そういう忠孝の現代的意義について,そう簡単には回答は出ません。
会社への絶対的忠誠って言った時点で,ブラックとか社畜とか言われる時代ですからね…
しかし,従業員の愛社精神や忠誠心,ロイヤルティはチームワークや結束力を生み,会社の強みとされるのですから,いかに良好な忠誠心を生み出させるか重要な課題です。

ちなみに,旧暦12月14日はほぼ満月でしたが,偶然ですが,今日も満月です。

 

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